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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2024-04-27-Saturday 再びえきねっと

5月のJRのチケットを

購入しなければならないのだが・・・

先日、えきねっとの会員登録をして購入する経験をしたばかりであるから、もう私一人でも出来るだろうと思ってトライしてみたのであるが・・・

やっぱり失敗してしまった。

帯広駅から新千歳空港駅までの割引切符をスマホで予約した。心配性なのか紙の切符を持っていないと不安なので発券する為に帯広駅まで出向いたのであった。

切符の自動販売機にスマホに出てきた二次元コードをかざして発券したのであるが、出て来た枚数が予想していた枚数よりも多いのである。

記載されている内容を確認してみたら、南千歳駅→新千歳空港駅の乗車券と指定席券があるのだ。この指定席券(Uシート)の切符の代金がまた高いのでビックリした。

南千歳駅と新千歳空港駅の間の乗車時間はわずか3分間である。

わざわざ指定席のある車両を探して、指定の席に座るのに時間が掛かるし、下手すると歩く距離も増えるかもしれない。それよりも目の前に来た車両に乗れば立っていてもわずか3分間であるから、席に座って、また立ち上がってをするよりもデッキに立っていた方がはるかに楽である。

しかも、立って乗れば料金は220円なのだが、指定席券(Uシート)だと1060円も掛かるのである。

私は、南千歳駅から新千歳空港駅までの指定席券など注文していない。

すぐにみどりの窓口に行って「注文していないのに勝手に指定席券が出てきたのだが・・・」と言ったらば、駅員が「えきねっとでは帯広駅ー新千歳空港駅と入力すると自動的に指定席での表示になる。帯広駅ー南千歳駅で購入した後に、南千歳駅ー新千歳空港駅と購入しなければならない・・・」と言う。そんなバカな!

もしも私が最初からみどりの窓口で口頭で帯広駅から新千歳空港駅までと注文していたら駅員がそんな切符の購入を勧めるであろうか?少なくとも乗車時間は3分間ですから指定席はどうされますか?くらいは客に尋ねるであろう。

えきねっとの対応は不親切極まりないではないか!

すると駅員が「払い戻しも出来ますよ。300円ほどの手数料が掛かりますが500円ほどは戻りますよ。その方が安くなりますけど・・・」と言うので「じゃぁ、払い戻して下さい」と言ったら「ここでは払い戻しが出来ません。南改札口まで行って払い戻しを受けてください」と言う。

面倒な!

腹が立ってきた。

それでも、指定席券など不要であるから、南改札口まで行って払い戻しをしてきた。

えきねっとは確かに安くはなるが、サービスの低下は否めない。ましてや私のようなネットに不慣れな者にとっては腹立たしいことばかりである。


■2024-04-23-Tuesday 閉鎖

坂本ビルの閉鎖業務が完了した。

これで1992年5月2日の父の逝去に伴い継承した会社の業務を全て終えたことになる。

思い返せば・・・

祖父の坂本勝が大正12(1923)年に、時の河西支庁長の諏訪鹿三氏から購入した土地に、昭和44(1969)年10月30日に父の圭司がオープンさせたサニーデパートなど坂本家の商売の歴史の幕を閉じることになった。

この西2条南9丁目16・18番地の100年に及ぶ歴史に三代目の私が終止符を打ったのである。

そうかぁ~100年かぁ~。

まさに「売りビルと PCで打ち出す 三代目」となってしまった(江戸川柳に「売り家と 唐様で書く 三代目」と云う句がある)。

情けないやら申し訳ないやら・・・でも正直半分ホッとしている。

これはあくまでも想像ではあるのだが、父は私に三代目を継がせるべく、父なりに私に教育をしてきたのであろうと思う。

子どもの頃から、一緒に風呂に入った時などには、常に昔の話を私に聞かせていた。我が家の歴史を口伝しようと思っていたのであろう。常に私にご先祖様を意識させる様にしてきたのだと思う。

私が、大学の卒業前に「マジシャンになりたい」と告げた時には「馬鹿野郎!」の一言で家に引き戻された。

私も儚い夢と諦めて家業を継いだのであった。

それが、昭和55(1980)年、22歳のことであった。

所謂「他人の飯を喰う」ことを知らずに大学を卒業して直ぐにそのまま父の会社に入ったのであった。

入社した当時は「バブル経済」が顕著になり始めていた好景気の頃であった。

向かいにあった藤丸デパート(昭和36年開店)が1丁北側の8丁目に巨大な店舗を建てて移転(昭和57年開店)した頃である。

帯広の中心街も、昭和50(1975)年に西3条9丁目にオープンしたイトーヨーカドー帯広店と、新生藤丸デパート、9丁目には昭和45(1970)年にオープンした長崎屋、そして昭和44(1969)年にオープンした我がサニーデパートと金市館などの大型店が揃っていて中心街が一番元気な頃であった。

やがて、郊外にカテゴリーキラーやスーパーの大型店舗が出来始めて、徐々に中心街から客足が遠のき始めた。

平成10(1988)年にはイトーヨーカドー帯広店が郊外に移転、長崎屋も平成12(1990)年には駅南に移転して跡地は駐車場になり現在もそのままである。金市館も撤退してパチンコ屋になり、その後はホテルドーミーインになった。昭和56(1983)年にオープンしたホシビルは平成20(2008)年に解体され跡地は駐車場になったままである。

藤丸デパートが8丁目に移転した昭和57(1982)年からは、その建物は北海道拓殖銀行(北洋銀行)として使われていたが、平成24(2012)年に拓銀の後を継いだ北洋銀行が閉店し解体されてからはこれまで12年間、現在までもずっと空き地のままで放置されている。かつての中心街はまさに見る影もない。

バブル経済は1990年頃に終焉を迎えた。

父の圭司が亡くなったのは1992年5月で私が32歳のことである。

すでにバブル経済は崩壊していたが、不幸にもバブル経済の余熱で上がった地価や相続税率が史上最高値を付けた年でもあった。現在の価格と比較すると超高額な相続税を支払って会社を継承したのであった。

この1990年代初頭のバブル経済の崩壊から現在までを、所謂、日本経済の「失われた30年」と云われているのだが、まさにこの長期経済低迷期に会社を運営してきたのであった。

社長に就任した2年後の1994年には中心街での物販主体のビル経営は難しいと考えて、飲食主体のビルへの大転換を決断し断行した。大型の居酒屋4軒をテナントとして迎えて一息ついたのであった。

中心街活性化の為に「提言書」も作成して帯広市や商工会議所に提出もした。「北の屋台」も作った。平原まつりを盛り上げる為に「大道芸フェスティバル」もやっている。中心街を走る「フードバレーマラソン」のキッカケも作ったが・・・。

2008年には100年に一度と云われたリーマンショックの不況も乗り越えたのであったが、2020年に起きて丸三年間も続いたコロナ禍には勝てなかった。

2023年1月には藤丸デパートが閉店、2024年3月には駅南の長崎屋が閉店した。そして4月には坂本ビルも・・・

とても残念で悔しいが、これも時代の波を乗りこなせなかった私の能力不足である。もともと金儲けの才能が無いのである。

ご先祖様には大変申し訳ない気持ちであるが、なんだか呪縛から解放されたような気もしている。

でもこれからいったい何をして生きていこうかなぁ~。


■2024-04-21-Sunday 要望

このブログを止める!と書いたら・・・

多くの方々から「止めないで」との要望が届いた。

嬉しいやら困惑するやら・・・。

すでに会社(坂本ビル)のホームページを掲載している会社との契約の更新はしない旨を伝えているのだ。

PCの坂本ビルで使用していた「kazchan@axel.ocn.ne.jp」のアドレスがもうすぐ使用出来なくなる。

自宅で契約しているのは、地元のケーブルテレビ局のものであるのだが、これまで一度もこのアドレスを使用したことがないのでアドレスが分からない。ケーブルテレビ局に電話してアドレスを尋ねたら「電話では教えることが出来ないので会社に来社して欲しい」と言うので、これまた一人では不安なので妻同伴で訪れたのであった。

妻もこの手のモノに明るいわけでは全くない。むしろ私よりも疎いくらいである。そんな状態の老夫婦が二人で行っても・・・

色々と聞いていて、有料サポートの方法も聞いたのだが、とりあえず自分でやってみようと思って、自宅に戻ったのだが・・・

自宅のPCを開いてやってみたのであるが、まるで出来ないのである。

これは困った!

もう俺にはPCは必要ない!と苛立ってしまった。

PCの使用を止めてしまって、スマホだけにしようかしらん。

もう、完全に時代の波に乗り遅れてしまったようで情けない。

昨晩の池上彰のテレビ番組で、ネットやサブスクやカード等の詐欺などの手口を解説していたが、私は付いていけないなぁと感じた。

操作の仕方すら満足に出来ない人間が、ネットでの注文などに手を出すのは危険極まりない。

便利は不便なのである。

面倒でも現金のやり取りの方が安心できる。

銀行の自動引き落としも恐い。面倒でもその都度支払う方法の方が安心できる。

もう私はこれからの社会に適合していけなさそうである。

Hermitになって隠棲するしかないのかなぁ~。